Mag-log in外は、いつしか雨が降り始めていた。
冷たい雨が髪を濡らし、喪服の肩に染み込んでいく。 雅人が結婚していた。 自分と出会う前から、妻と息子までいた。 でも、そんなはずはない。 この二年、雅人は、毎日、紗英の家へ帰ってきていた。 出張で留守にすることはあっても、朝食を一緒に食べ、休日には買い物へ出かけた。 同じベッドで眠り、未来について話した。 あれがすべて嘘だったなんて、信じられるはずがなかった。 きっと、何か事情があるはず。 澄香との結婚は、すでに終わっていたのかもしれない。 離婚の手続きに、何か問題があったのかもしれない。 雅人は、紗英に話す機会を探していたのかもしれない。 あの日の朝の『帰ってきたら、父の病院に一緒に行こう』という言葉には、すべてを説明しようという思いがあったに違いない。 紗英は、そう言い聞かせながら、自宅へ戻った。玄関の扉を開けた瞬間、雅人の靴が目に入った。
黒い革靴。 休日に履いていたスニーカー。 磨いておいて欲しい、と頼まれていた茶色の靴。 どれも、雅人がここで暮らしていた証拠だった。 「雅人……」 呼びかけても、返事はない。 静まり返った部屋には、雅人が使っていた香水の匂いが薄く残っている。 紗英は、濡れた喪服のまま、寝室へ向かった。 クローゼットの扉を開けば、雅人のスーツが並んでいる。 洗面台には歯ブラシが二本あり、ベッド脇には彼が読みかけの本が伏せられていた。 この生活まで、嘘であるはずがない。 紗英は、クローゼットの下段から、小さな金庫を引き出した。 大切な書類は、すべてそこに保管している。 暗証番号は、二人が結婚式を挙げた日だ。 扉を開け、奥に置かれた白い封筒を取り出す。 表には、雅人の字で『婚姻関係書類』と書かれていた。 中には、紗英と雅人が署名した婚姻届の写しと、婚姻届受理証明書が入っている。 紗英は震える手で、証明書を広げた。 自治体の名前も、受付年月日も記されている。 印も押されていた。 間違いなく、婚姻届は受理されている。 そう思った瞬間、少しだけ呼吸が楽になった。 明日、役所へ行ってみよう。 戸籍を確認すれば、すべてがはっきりするだ。 澄香が雅人の妻だったとしても、自分との婚姻届の提出記録が存在するなら、雅人に何かの誤解があったのかもしれない。 紗英は証明書を胸に抱いて、長い息を吐いた。 紙一枚に縋らなければならないことが、情けなかったが、この一枚が自分と雅人が夫婦であったことの何よりの証拠だと思えた。 雅人を信じている。 そう思いながらも、これまでの雅人の言葉だけでは、安心できなくなっている自分にも気づいていた。◇◇◇
翌朝、紗英は役所の戸籍窓口を訪れた。
あれから、一睡もできなかった。 番号札を握りしめ、待合席に座る。 やがて、窓口から名前を呼ばれた。 「水城様」 紗英は、一瞬反応できなかった。 水城 産まれた時から使い続けていた姓なのに、まるで、他人の名前のように聞こえた。 この二年、幸せな生活の中で、ずっと高槻紗英として生きてきたからだ。 「水城紗英様」 もう一度呼ばれ、返事をしてようやく立ち上がる。 窓口へ行くと、女性職員は戸籍証明書を渡す前に、困ったような表情を浮かべた。 「失礼ですが、婚姻されたのはいつ頃でしょうか」 「二年前です」 「お相手のお名前を伺ってもよろしいですか」 「高槻雅人です」 職員は端末を確認した。 「婚姻届を提出された自治体は、こちらですか」 「はい。夫が提出しました」 「水城様は、ご一緒には来られていないのですね」 「仕事がありましたので。でも、受理証明書もあります」 紗英は鞄から白い封筒を取り出した。 証明書を受け取った職員が、記載内容を確認する。 その表情が、次第に険しくなった。 「少々お待ちいただけますか」 職員は証明書を持って奥へ下がった。 別の職員と何かを話し、再び端末を確認している。 やがて、年配の男性職員を伴って戻ってきた。 「水城様」 男性職員は、紗英の向かい側に座った。 「確認いたしましたが、こちらで高槻雅人様と水城紗英様の婚姻届を受理した記録はございません」 「そんなはずはありません」 紗英は即座に言った。 「証明書があります。そこに受理されたと書いてあります」 「ですが、戸籍上、水城様は現在も未婚となっています」 差し出された戸籍証明書に、紗英は目を落とした。 自分の名前の横に、雅人の名前はない。 婚姻日も、新しい戸籍が作られた記録もない。 紗英は今も、水城家の戸籍に残ったままだった。 「間違いではありませんか」 「戸籍の情報に、ということでしょうか」 「夫が提出したんです。私は婚姻届に署名しました。証人の署名もありました」 「記入された婚姻届が、実際に提出されたかどうかは、こちらでは分かりません」 男性職員は慎重に言葉を選んだ。 「ただ、当方で受理した記録がない以上、法律上、婚姻は成立していません」 法律上、婚姻は成立していない。 その言葉だけが、耳の中で繰り返された。 「では、この証明書は何なんですか」 紗英が尋ねると、二人の職員は顔を見合わせた。 「こちらの書類については、発行記録を確認できませんでした」 「どういう意味ですか」 「この窓口から発行されたものではない可能性があります」 男性職員は、偽物という言葉を使わなかった。 だが、意味は同じだった。 「夫が、これを私に……」 「状況によっては、警察や弁護士へのご相談をご検討ください」 紗英は、椅子から立ち上がることができなかった。 雅人が提出すると言った婚姻届は、提出されていなかった。 受理された証拠として渡された書類も、本物ではなかった。 二年前、チャペルで交わした誓いの言葉が蘇る。 『病めるときも、健やかなるときも、君だけを愛する』 あの言葉を口にしたとき、雅人はすでに澄香と結婚していた。 悠真という息子もいた。 それなのに.....彼は、紗英に白いドレスを着せ、指輪を贈り、婚姻届に署名させたのだ。――どうして
のろのろと役所を出ると、空はよく晴れていた。
昨日の雨が嘘のように、空は青い。 道を行き交う人々は、変わらない日常を送っている。 紗英だけが、世界から取り残されたようだった。 鞄の中には、婚姻記録のない戸籍証明書と、偽物の受理証明書が入っている。 日差しを遮るように目の上にあてた左手には、結婚指輪。そのとき、携帯電話が鳴った。
帰宅すると、入れ違いにハウスキーパーの田所がちょうどエプロンを外し、仕事を終えて帰ろうとしていた。「お帰りなさいませ。今日はお仕事、いかがでしたか?」「ええ。順調でした」「それはよろしゅうございました。お仕事に出られるようになってから、表情が明るくなられましたもの」田所の言葉に、紗英は小さく笑った。実際、仕事は順調だった。担当者とも打ち解け、デザイン案も少しずつ形になっている。それなのに、どうしてこんなに気持ちが重いのだろう。――弟から兄だなんて。三枝の言葉が、何度も頭の中で繰り返される。考えたことがなかったわけではない。世間からどう見られるかも、怜司にどれほど迷惑をかけているかも、自分なりに理解しているつもりだった。ただ、面と向かって言われると、何一つ反論できず、言われた言葉は自分の中で反芻されるばかりだった。雅人を愛していた。結婚していると信じ、二年間、妻として暮らしていた。その雅人が亡くなり、今は怜司の妻になっている。しかも最近は、怜司の帰りを待つことさえ楽しみになっていた。契約で始まった結婚なのに。そんな自分が、少し怖かった。玄関の扉が開く音がした。「ただいま」いつもより早い怜司の帰宅だった。「おかえりなさい」紗英は立ち上がり、笑顔を作った。「今日は仕事、どうでした?」「順調でした。試作も、担当の方に気に入っていただけたんです」「それはよかった」怜司は微笑んだが、すぐに紗英の顔を覗き込んだ。「……何かありましたか?」「え?」「少し疲れているように見える」紗英は慌てて首を振った。「今日はずっと立って作業をしていたので、そのせいだと思います」「そうですか。あまり無理はしないでくださいね」そう言って、怜司はネクタイを緩めた。
ホテルのロビーに、色とりどりの花が並べられていた。「こちらの花器でしたら、もう少し枝物を減らした方が、奥のソファからも見通しがよくなると思います」紗英が提案すると、ホテルの担当者が頷いた。「確かに。正面からだと華やかなんですけど、横から見ると少し大きいですね」「そうなんです。待ち合わせに利用されるお客様もいらっしゃいますから、視界を遮らない方がいいと思って」紗英は、用意していた花材を少し入れ替えた。今日は、最初に提出したデザイン案をもとに、実際の花器を使った試作を行っている。何度か打ち合わせを重ねるうちに、ホテルの担当者とも気軽に意見を交わせるようになっていた。「やっぱり現場で見てもらうと違いますね」「ありがとうございます。実際に置いてみないとわからないことも多いですから」「この前のラウンジの案も、責任者がすごく気に入ってました。次の打ち合わせもよろしくお願いしますね」「こちらこそ、よろしくお願いします」自然と笑顔になった。仕事を失ったときには、もう二度とこんなふうに花に触れられないかもしれないと思った。それが今は、ホテルの担当者と意見を交わしながら、一つの空間を作り上げている。積み上げてきた実績も仕事も、一度は失ったからこそ、改めて思う。やっぱり、私はこの仕事が好きだ。花で空間を彩り、そこで過ごす誰かの時間をよりよいものにする。そんな仕事を、また始められたことが嬉しかった。◇◇◇作業を終え、紗英が資料を片づけていると、背後から声をかけられた。「水城紗英さん、ですよね?」振り返ると、見覚えのない女性が立っていた。四十歳前後だろうか。きっちりとまとめた髪に、上品な紺色のスーツがよく似合っている。「あ、はい。そうですが」「私、三枝理香と申します。本社の営業企画部におります」差し出された名刺を受け取ると、女性は穏やかな笑みを浮かべた。「以前は
「澄香さん。あなた、ずいぶん上手く仕事をこなしているそうじゃない」澄香は、ダイニングの扉から入ってきた美津子の姿に、驚く。彼女が、夕食の席にやってくることなど、ほとんどない。「はい。皆さまのお気遣いもあって快適にお仕事をさせていただいています」「悠真のためにも、あなたが会社で認められておくのはいいことよ」美津子は、ダイニングテーブルで食事をしている、悠真の方に視線を走らせる。「あなたの仕事については、黒瀬さんがしっかりサポートをしてくださるそうよ。悠真が将来会社に関わるときのためにも、今のうちから内情を知っておくのは良いことだわ」澄香は黙って頷いた。さっきまで、食事をしながら、楽しそうに友達の話をしていた悠真は、美津子の姿にすっかり黙り込んでしまった。「それより、怜司さんがあの女のせいで、会社を引っ掻きまわしているみたいよ」「……そうなのですか?」「雅人が築いた取引関係まで疑うようなことをしているそうだわ。まったく、何を考えているのかしら」澄香は、先日黒瀬から聞いた話を思い出した。「まったく。怜司さんもあんな女に振り回されて。目も当てられないわね。育ちが悪いったら――」「お母さま。悠真の前ですから」澄香は、慌てて美津子の話を遮った。「ああ。そうね。悠真。早く自分の部屋で勉強しなさい」悠真は、いつものように小さく「はい」と返事をすると、ダイニングを後にしようとする。「悠真。あとでお部屋にデザートを持って行ってあげるわ」そう声をかけると、悠真は嬉しそうに頷いて階段を上がっていった。美津子は、リビングへ移り、ソファに腰を掛けた。澄香はそこへコーヒーを運んだ。「黒瀬さんがね、怜司さんが過去の契約まで調べ始めたせいで、昔からの取引先にまで迷惑がかかっているって言っていたわ」美津子は、コーヒーを飲みながら、澄香に手で向かい側に座るように促した。「引っ掻き回されているっ
黒瀬は、机の上に置いた資料を忌々しげに睨んでいた。系列ホテルの過去の装花契約について、追加資料の提出を求められている。最初は副社長の妻との直接契約を問題にしていたはずなのに、いつの間にか調査の範囲が広がっていた。「なぜ、こんな昔の案件まで調べる必要があるんだ」向かいに立つ部下は、答えに困ったように視線を落とした。「経理からの依頼です。今回の契約との比較資料にするそうで、系列ホテルで共通する取引先についても確認するようにと」「比較なら、過去一年分で十分だろう」「それが、雅人専務の時代まで遡るようにという話でして。新しく契約されたフラワーデザイナーの信用問題に関係するということだそうで……」黒瀬は、思わず舌打ちをしそうになった。新しいフラワーデザイナーとは、雅人の愛人で、今は副社長の妻となった女のことだ。――まったく忌々しいあの女は、雅人の死によって、妻の座も、仕事も、家もすべてを奪われて、消えてしまう予定だった。それがどうしてこんなことになったのか。――金づるだった雅人が死んだら、その兄に鞍替えとは。まったく強かな女だ高槻の家で出会った時には、しおらしくして扱いやすそうに見えたが、結局、あのあと、女から連絡は来なかった。副社長側にすっかり取り込まれたようだ。――遡って、契約を洗い出すなどその中には、今さら掘り返されては困るものがいくつもある。「具体的には、どこまで調べているんだ?」「系列ホテルのうち、雅人専務が直接関わられた案件を中心に、契約書と請求書、それから納品記録の照合を進めているそうです」「納品記録まで?」黒瀬は思わず顔を上げた。「はい。特に海外から調達した花材については、仕入れ先や搬入記録まで確認するようにと」「……ずいぶん細かいことをするんだな」黒瀬は、苛立ちを隠せなかった。「わかった。こちらでも確認しておく。資料は勝手に提出するな」部下が退出すると、黒瀬は携帯電話を取り出した。連絡先を開き、しばらく指を止める。そして、一件の番号を選んだ。「……私だ。少し確認したいことがある」電話の相手は、雅人と取引のあった業者の責任者だった。「過去の請求書について問い合わせが来ていないか?」『ええ。ホテル側から、納品記録を確認したいと連絡がありましたが』「何と答えた?」『古い案件ですから、資料を探して
夕食を終えたあと、怜司が珍しくノートパソコンを持ってリビングへやってきた。「紗英。少し仕事のことで相談したいんだけど、いいかな?」名前で呼ぶようになってから、怜司の接し方は少しくだけたものに変化していた。その距離感に紗英は、まだ少し照れがある。「はい。私でよければ」隣のソファに腰を下ろした怜司が、パソコンを開く。「澄香さんからの話は聞きました。黒瀬が接触してきたそうですね」「はい。澄香さんには、あまり無理をしないでほしいんですけど……」「そうですね。高槻に家にいると、彼女の周囲に味方は少ないでしょうから。せいぜい、黒瀬に話を合わせておく程度で、深入りしないように彼女に伝えてください」怜司はそう言って、画面を紗英の方へ向けた。「実は、過去の装花契約について調べているんですが、気になるものがあるんです」表示されていたのは、請求書をまとめた資料だった。「これは……ホテルの装花費用ですか?」「雅人が関わっていた件です。契約上、かなり高額な花材が納品されたことになっているんですが、実際の納品記録と一致しない」紗英は画面を覗き込んだ。ホテル名、施工時期、花材の種類、数量。馴染みのある項目が並んでいる。「少し見せていただいてもいいですか?」「もちろん」そう言うと、怜司は、身体を寄せて見えやすいようにPCを紗英の前に出した。紗英はパソコンを自分の方へ引き寄せ、請求明細を読み始めた。「……あれ?」最初に気になったのは、花材の数量だった。「このホテル、改装前のロビーですよね?」「そうです。今から二年ほど前の案件ですね」「私、ここに行ったことがあります。以前、装花の打ち合わせで伺ったんです」紗英は、記憶の中のロビーを思い浮かべた。広い吹き抜けが特徴的なホテルだったが、正面には
黒瀬の背中を見送りながら、澄香は小さく息を吐いた。彼は、こんな陳腐な芝居でも、こちらが素直に信じると思っているのだろう。今までの自分なら、そうだったかもしれない。誰かがこうしろ、と命令すれば、そのとおりにしていたはずだ。しかし、今は違う。少なくとも、悠真のこれからについては、自分が慎重に考え、絶対に周囲に流されることのないようにしないといけない。澄香は、携帯電話を取り出し、さきほどの黒瀬とのやりとりについて、紗英にメッセージを送った。ほどなくして返事が届いた。『あまり無理をして、そちら側を探らなくてもいいですからね。危ない目に合わないようにしてください』澄香は、少し考えてから返信した。『大丈夫です。私、演技は上手いんですよ』すぐに返事が返ってくる。『澄香さんに何かあったら、大変ですから。くれぐれも注意してください。この件は怜司さんにも伝えておきます』返事のスタンプを送り終えると、澄香はもう一度、仕事の資料を手に取った。◇◇◇「黒瀬が、澄香さんに?」佐伯の報告を受け、怜司は眉を上げた。「はい。インテリアデザイン部門で、しばらくお話しされていたそうです」「なるほどな。澄香さんなら、簡単に言いくるめられると思ったわけか」怜司は口元を緩めた。黒瀬が澄香を利用し、紗英との対立構造を作り、怜司の評判にも傷をつけようとしていることは容易に想像できた。ただ、黒瀬は知らない。澄香と紗英が、すでに互いを信頼していることを。「それから、副社長。過去の装花契約について、追加の報告がございます」佐伯は別の資料を机に置いた。「黒瀬部長が承認していた案件のうち、ホテル側の納品記録と請求内容が一致しないものが、ほかにも見つかりました」「同じ取引先か?」「はい。複数の系列ホテルで利用されています。現在確認できたものだけで、請求額は約八千万円になります」怜







